第七回 『文字が俳句になるまで 韻文と散文のちがい』
- 2021.06.14
- 文法学部 二階教室
みなさんこんにちは。
『俳句大学 文法学部』の第七回講義です。
ここからは二階教室となります。
一階教室が入門編だったのに対し、二階教室は句作を経験した初級者向けの位置づけに変わります。
ここでは文法と俳句の関係を解説します。
先へ進む前に
の各項目に目をとおしておくことをお勧めします。
俳句ってどんな文章のこと?
“What kind of a sentence is HAIKU ?”
俳句に興味をもつ外国人から、英語でこんな質問をされたら、どう回答しますか?
ときに直球すぎる海外のクエスチョンは、返事に困りますよね。
ふつうなら実物を見てもらうのが一番ですが、俳句は日本語で書かれているので、そういうわけにもいきません。
例句を読めるくらいなら、そもそも英語で質問をしてこないでしょう。
したがって言葉でコンセプトをまとめるしか解決法はありません。
しかし、俳句の特徴をひとつずつ説明しようとすると、とうてい語り尽くせないのも事実です。
たとえば「俳句は五・七・五です」と言えば字余りや破調が漏れますし、「俳句には季語があります」と定義すると無季の句が説明できなくなってしまいます。
この方法では、概略をまとめるのに何日もかかるに違いありません。
そこで切り口を変える必要があります。
それが万国共通のカテゴリーに当てはめる方法です。
万国共通のカテゴリー
「よくある常套手段だよね」と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください。
外国人に説明するというのは、あくまでも作り話。
真の目的は、文法的なカテゴリーに当てはめて俳句そのものを定義することにあります。
なぜ俳句を詠むのにそんな面倒な確認をする必要があるのでしょうか?
そのメリットは明白です。
「俳句は○○に分類される文章です」と定義すれば、自分が句作するときの指針になるからです。
ゲームに喩えると「パックマンはアクションに分類されるパズルゲームです」と言うようなものでしょうか。
操作方法とか画面の見方とか、細かな特徴を語らずとも、一発でコンテンツの概略が分かります。
おなじように、俳句を標準規格に当てはめると、文法的にどのような立ち位置にあるかを概念で把握できるようになります。
文法的なカテゴリーはゲームのジャンルよりずっと厳格なので、どういう文章を俳句と呼ぶかが明瞭にイメージ化されます。
すると、自然と創作の方向性も明確になる――というわけでです。
自分のなかに論理的なコンセプトを確立しておけば、今後の作句活動において羅針盤のような役割を果たすでしょう。
そこでまず 「俳句は○○に分類される文章です」 の「〇〇」を何にすれば良いか、そこから考えてみましょう。
韻文と散文
俳句は何に該当する文章なのか――
具体的に定義するには、まず文法上のカテゴリーを知らなければなりません。
そこで登場するのが、韻文と散文です。
あらゆる文章をカテゴライズする国際的な指標で、明確に区分されているため、水と油のように交わることがありません。
辞典で調べると、それぞれ次のような意味になっています。
韻文:一定の韻律と形式を伴った文章。一般に韻文すなわち詩と考えられているが、仮に韻文で書かれていても、そこに詩精神がなければそれは詩とはいえない。
引用:『日本大百科全書』より抜粋
散文:普通の文章の意。散文の「散」というのは、この場合、制限がない、という意味で、詩歌のように字数や韻律やによって規制されることのない文のことである。
引用:『日本大百科全書』より抜粋
簡単にまとめると、韻文とは韻律を有する形式文のこと、散文とはそれ以外の自由文のこと、と分けられます。
俳句はどちらに該当するでしょうか?
『文法学部 一階教室 第一回講義』で説明しているように、俳句は音数による韻律を有しています。
いわゆる五・七・五です。
これは「一定の韻律と形式を伴った文章」に当たりますから、韻文か散文かで言えば、韻文に区別されることになります。
したがって<俳句 = 韻文>という方程式が成立します。
冒頭のクエスチョンに戻るなら、文法的に正しい答案の一例は、「俳句は韻文に分類される文章です」というものになります。
五・七・五なら何でも俳句?
結論が出たのでまとめ――に行く前に、ここで再び立ち止まってください。
韻文の定義にはもうひとつ「一般に韻文すなわち詩と考えられているが、仮に韻文で書かれていても、そこに詩精神がなければそれは詩とはいえない」という条件が付いていました。
韻文で書かれていても韻文と呼べない場合がある――これはいったいどういう意味でしょうか?
俳句に置き換えると、五・七・五の韻律を持っていても俳句と呼べない場合がある、という意味になりそうです。
そして、俳句が俳句であるためには、詩精神が不可欠とも述べられていることになります。
しかし、文法上の定義が精神論で変化すると言われても、どういう状態を指すのかロジックに理解できません。
具体的に何によって区別すれば良いのでしょうか?
それを確かめるために、ちょっとしたお遊びをしてみましょう。
筆者の詠んだ俳句のなかに、それを確かめる丁度良い素材があります。
つぎのふたつの文章を見比べてみてください。
・ 流氷が数を減らしてゐる地球
・ 流氷が途方に暮れてゐる地球 豊島月舟斎
どちらも季語「流氷」を含む五・七・五で、形式的な違いはありません。
地球温暖化の事実を見たまま写生している点でも、内容的におなじものです。
ところが文章から受け取るメッセージはどうでしょうか?
それぞれの文章の主旨に、微妙なニュアンスの違いを感じませんか?
事実、上の文章は散文、下の文章は韻文で、ふつう前者を俳句とは呼びません。
つまり、前者には詩精神がなく、後者には詩精神があると判断されることになります。
……見た目の違いは中七の五文字だけですが、たった五文字でなぜ詩精神のあるなしを判断できるのでしょうか?
ここが今日の本番です。
詩情で決まる! 俳句の定義
韻文と散文の境界線については、すでに答えが出ています。
詩精神の有無こそが両者の分かれ目です。
問題なのは「どこに詩精神があるのか?」という点。
そこで、ふたつの例文から受け取るメッセージ性の違いに注目してみてください。
上の例文のほうは、状況説明以外の成分がいっさい存在しません。
もし一物仕立なら、未発見のアイデンティティや一瞬のシャッターチャンスを捉えていなければなりませんが、そのようなシンパシーは存在せず、写生としての構図が工夫されているわけでもありません。
要するに報告書です。
ニュースや新聞とおなじ、既知の事象を簡潔にまとめたレポートに該当します。
つまり、たまたま音数が五・七・五に収まったというだけで、詩精神はどこにもありません。
ですから散文になるわけです。
一方、下の例文はどうでしょう。
こちらには、目前の事象からすくいあげた心の動きが表現されています。
数少なくなった流氷に寄せる思いを描いている、というと分かりやすいでしょうか。
あからさまな不安感をあらわす言葉が使われています。
作者の感情とは、すわなち詩精神です。
そこが分岐点となって、韻文に分類されるわけです。
このように、構文や内容がどれほど良く似ていても、詩情をあらわす表現になっているかどうかで文章の主旨は変化します。
韻文か? 散文か? という分類は、表現の仕方しだいということです。
これは、表現の違いによって文章全体の文法的な立ち位置が変化するという実例です。
詩精神が欠かせない、という定義の具体的な意味が、何となく掴めたでしょうか?
抒情詩にも叙事詩にも叙景詩にもなる俳句
さて、ここまで紙面の大部分を割いて、韻文の特徴を詳しく追ってきました。
「詩に詩情があるのは当たり前」と頭で分かっていても、短い表現ひとつで文法的な立ち位置が決まってしまう俳句の世界では、意外と見落としがちなポイントになります。
じつは筆者もそうなのですが、プレゼンに慣れたビジネスマンなどは、とくに散文化しやすい傾向にあります。
論理的な思考ルーチンの染みついた人ほど注意したほうが良いでしょう。
作句の筆をとる前に、ぜひ一度『表現学部 二階教室 第七回講義』とあわせて確認してください。
ところで――
・韻文である俳句には詩の精神が欠かせない
・ゆえに表現が散文化しないよう気をつけなければならない
と考えると、一見めんどうな制約のように見えます。
人によっては、「散文にならないよいうに気を付けなくちゃ!」と気にするあまり、萎縮してしまう向きもあるかもしれません。
ところがこの定義は、じつは幅広いアイディアの可能性を示唆しているのです。
特定の目的に縛られたビジネスレターより、よほど自由に自己表現できる可能性があります。
なぜなら「詩精神さえあれば内容を問わない」という逆の意味にもなるからです。
そこで最後に、俳句の柔軟性について言及しましょう。
<韻文 = 詩>という方程式が成り立つ以上、そのなかには、
・ソネットや詩歌などの「抒情詩」
・『イリアス』『オデュッセイア』に代表される「叙事詩」
・景観にフォーカスした「叙景詩」
をはじめ、さまざまな種類の詩型がふくまれます。
俳句はそのすべてになり得ます。
言い換えると、「文法的にどんな詩型も表現できるほど自由度が高い」ということになるでしょうか。
近代俳句の祖、正岡子規はこう言っています。
「けだし俳句は叙情詩なるもあり叙事詩なるもあり又叙景詩なるもあり」
子規によると、俳句は抒情詩にも叙事詩にも叙景詩にもなり得ます。
つまり、ほぼ制約が存在しません。
実際、アイドルグループの曲の歌詞になった俳句(!?)さえ存在します。
そこまでいくと、「戯曲」と言っても差し支えないでしょう。
このように、「およそ俳句で作れない詩型はない」と断言して、とくに問題を感じません。
それほど汎用性が高いわけです。
まとめると、「詩であるべし」という俳句のコンセプトは、制約よりもむしろ可能性の大きさをあらわしています。
どういう詩型の俳句を詠むかは、あなたの表現しだいになるでしょう。
韻文と散文まとめ
ざっくりと今回のおさらいをします。
俳句とはどのような文章なのか、カテゴリーから概念化を試みました。
その結果、
「俳句は韻文に分類される文章である」
と定義付けました。
韻文には、単に韻律を持つ文章と言うだけでなく、詩精神を内包した文章という意味があります。
したがって、たとえ五・七・五で季語があったとしても、詩情がなければ俳句として成立しません。
詩情を持たせるためには、心の動きを読み手に伝える表現が必要です。
表現によって文法上の立ち位置が変化します。
その結果、
「ある文章を俳句と呼べるかどうかは表現の仕方しだい」
というのが結論となります。
また、俳句は抒情詩にも、叙事詩にも、その他あらゆる詩型になれる柔軟性をあわせ持っています。
どんな詩型にするかは完全に自由なので、目的意識に縛られることなく、想像の翼をひろげてゆくことができるでしょう。
最終的にどう分類されるとしても、定型詩としての体裁に詩情がともなっていれば、「それが俳句である」ということになります。
以上が今回のまとめです。
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