第十三回 『詠み手は人か? 神さまか?? 写生句の作り方』

第十三回 『詠み手は人か? 神さまか?? 写生句の作り方』
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ここからは三階教室となります。

二階教室までは初心者向けに俳句のパターンを解説しましたが、三階教室からは一般論を離れて「正解のない問題」を取り上げます。
持続的に作句している読者を対象に、「この話あなたならどう思う?」というスタンスで一緒に考えていくコーナーです。

そのため、これ以降の内容には「筆者はこう考えた」「筆者はこうやってみた」という経験則の紹介が多数出てきます。
結果的に読者の考えとズレていたり、場合によっては正反対の記事になる可能性もありますので、読み進める前にあらかじめご承知おきください。

それでは、筆者の成功や失敗の小噺をお楽しみ頂きつつ、少しでもあなたの参考になることを願って第一回を語りはじめましょう。

人間は居るべきか? 居なくても良いか?

まるでディストピアSFのようなサブタイトルですが、もちろん俳句の話です。

ここで言う人間とは、俳句の詠み手自身を指します。

「俳句に詠み手がいる、いないって……何のこと?」と思った向きは、このまま続きを楽しんでください。

これまで「俳句とはどんな文章なのか?」について、いろんな角度から検証してきました。

 ・ 五七五調を基本の韻律としている
 ・ 季語の力を借りて詠む
 ・ 具体的なものや事象に気づきを託す

などなど、さまざまな特徴を述べてきましたが、大まかなコンセプトだけを筆者なりにひと言にまとめると、「心にとまった五感を写生する文芸」となるでしょう。
正岡子規が定義したコンセプトそのままです。

 

引用:wikipedia

それを踏まえて達人たちの名句を眺めてみると、写生は写生でも異なる二種類の視点があることに気がつきます。

現代風に言えば、人間くさい目線と、神ってる目線。喩えるなら「人の視点」か? 「神の視点」か? ……といった感じでしょうか。

――「人の視点」なら分かるけど、「神の視点」とは何のこと?
――もはや人間じゃなくなっちゃってるんだけど??

これらの疑問に答えるため、具体的にどういうことか例を挙げて見てみましょう。

人の視点、神の視点

作句の方向性について、難しい議論はたくさんあります。

正岡子規が世を去って百年以上、現代でさえ「これが正しい俳句の方向性だ」という結論は出ていません。
俳壇を代表するような達人たちの間でも、人間探求派とか、客観写生派とか、いろいろな括りで定義しているのが現状です。

 

超ざっくり作風流れ

しかし、その問題に決着を図るのが今回の目的ではありません。
ここでは客観的に視点の違いを把握するため、「どちらが正解か?」でなく「色付きのコーラと無色透明なサイダー、どちらが好みですか?」という問いかけとして考えていきましょう。

正岡子規が新聞日本の社員だったころ、文芸欄で次の句を取り上げたことがありました。

 ・ 五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村

 ・ 五月雨をあつめて早し最上川 松尾芭蕉

善し悪しを論じるのは子規にお任せするとして、今回ネタにしたいのは「どういう目線で描かれているか?」の部分です。
どちらも夏の季語「五月雨」の二章句ですが、皆さんはどんな違いを感じましたか?

 

歌川広重「出羽最上川月山遠望」

筆者が味わった違いは、まさにコーラとサイダーの違いでした。
端的に言えば、詠み手の「心の色」を通して味わう飲料と、詠み手は「無色透明」で五月雨の味のみを純粋に楽しむ飲料、といった感じになるでしょうか。

次章でそのあたりの違いをもう少し具体的に追ってみましょう。

詠み手に共感して成立する俳句、詠み手と関係なく成立する俳句

蕪村の句も芭蕉の句も、どちらも写生句には違いありません。
俳句の原則どおり、定型、有季、具体といったキーワードもきっちり踏襲しています。
五月雨で増水した河川の驚異をテーマに詠んだところまで、まったく同じ。
しかし、前者のほうは着想からして人間くさいのに対し、後者のほうは超然としています。

……この差はどこから来るのでしょうか?

ここに詠み手の存在感の違いがあります。

前者は自然の驚異に不安を覚えた人間の心理や経験に立脚しています。
二件の家は今まさに氾濫に飲み込まれる危険に直面していて、生活ばかりか生命すら危うい状況でしょう。
この光景を思い浮かべるとき、私たちは自然と詠み手の抱いた心配や懼れといった情動に共感することになります。

つまり、蕪村の心理的フィルターを通して五月雨を眺めるわけです。
これが「人の視点」と称した理由です。

一方、後者はどうでしょうか?

最上川の増水をひたすら的確に、中正に抽き出しています。
ここにあるのは発見、観察、描写だけ。
「この俳句はこのような情感を共有してほしい」という詠み手のメッセージ色が付いていません。
素晴らしい躍動感を切り抜いた芭蕉の目には感動しますが、基本的に詠み手の感性のフィルターは通過しません。

おかげで私たちは自由に鑑賞することができ、逆に言うと自分で解釈する必要があります。
危険だと考えてもいいし、勇壮だと捉えてもいい。
ぶっちゃけ作句した芭蕉本人と異なる感想に至ることもあり得るでしょう。

これが「神の視点」の作り方というわけです。

このように、ひと口に写生句と言っても、言葉の組み立て方によっては微妙に視点の異なる俳句の出来上がる場合があります。

『ゲルニカ』はピカソの心で観る絵画ですが、『モナ・リザ』は自分の感性で鑑賞する絵画です。
どちらの見せ方にもそれぞれ味があって、写生のモチーフ次第で、どう見せるほうが適切かが変わります。

自分で作句するときには、こうした視点の違いも意識して推敲すると良いのではないでしょうか?

 

まとめ

今回は写生句の作り方について、二種類の方向性があることを紹介しました。

詠み手の内面を通して季語を語る方法と、季語のもつ味わいだけにフォーカスする方法です。
それぞれ読後の特徴が異なるため、前者を「人の視点」、後者を「神の視点」と称しました。

繰り返しになりますが、「どちらが良いか?」ではなく「俳句の作り方にはこうした視点の違いがある」という話になります。
自分で作句するときに、どんな視点で描くのが適切か場面場面で考慮に入れておくと、ひとつの指針になるでしょう。

余談になりますが、紹介した芭蕉の句

 ・ 五月雨をあつめて早し最上川

は、もともと「早し」でなく「涼し」と詠まれたのだそうです。
のちに推敲し直して現在の姿になったのだとか。

……もし「涼し」のまま伝わっていたら、それはそれで面白かったでしょうね。
筆者も色付きのコーラとして楽しんでいたに違いありません。

皆さんも暇つぶしに達人の名句を分解したり、改造したりして、あれこれ楽しんでみては如何でしょうか。