第十二回『タブーの真相 季重なりをスッパ抜く』

第十二回『タブーの真相 季重なりをスッパ抜く』
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みなさんこんにちは。
『俳句大学 作り方学部』の第十二回講義です。

前回の講義をもって、『作り方学部 二階教室』のメインコンテンツは終了しました。

この最終回は補足として、俳句を作りはじめた人がかならず向き合う「季重なり」について解説し、講義を締めくくりたいと思います。

季重なりとは?

前回の解説で、

 ・ 落ちて来て露になるげな天の川  夏目漱石

という例句を取りあげました。

文法的に上五、中七の言葉すべてが下五へかかるため、「天の川」を季語とする一物仕立とみなしたかと思います。
季節で言うと初秋です。

それは動かしがたい事実ですが、一方で中七に「露」というべつの季語も見えます。

ちょっと肌寒い朝に下草の葉っぱで丸くなってるあの水滴ですね。
こちらも秋の季語として、歳時記にも載っています。

……おや?

一句にふたつの季語を抱えていることになりますね。
いわば季語のダブり、バッティングです。

まさかあの夏目漱石が「露」を季語だと知らなかったのでしょうか……?

もちろん違います。
こうした俳句を専門用語で「季重なり」と呼びます。

季語のダブりは許されるのか?

俳句に季語が必要なことは、わりと誰でも知っています。
学校の必修科目で「俳句を作るときは季語を使うこと」と教えているからです。

 

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しかし、季語をいくつ使うかまでは教科書にも指定されていません。

俳句はとても短い文芸作品なので、ふつうは季語をいくつも使う音数の余分なんてありません。
つまり、そもそも季重なりを考える必要がないわけです。

ところが、漱石はあえてふたつの季語を取り入れています。

はたして複数を一度に使うことは許されるのでしょうか……?

結論から述べます。

季語をいくつ使おうと自由です。
ただし、よほど明確な目的と、緻密な工夫がないと、焦点がブレて何を言いたいか分からない俳句になってしまいます。

ですので、季重なりには注意が必要です。

喩えるなら、剣道の素人が二刀流で立ちまわるようなものでしょうか。
一刀での打ちこみや駆け引きの仕方が分からないのに、もう一本竹刀を持ったところで、かえって邪魔になるだけです。
宮本武蔵の二刀流は、宮本武蔵だからこそ強かったわけです。

俳句も同じで、初心者のうちから季重なりを考える必要はまったくないと言ってしまって良いでしょう。

 

これは筆者の考えになりますが、「俳句は季語を使うもの」という表現そのものが、あまり正確とは言えません。
俳句とは「季語の力を借りて詠むもの」です。

ブログでもYoutubeでも、何かを人に伝えるときはテーマをひとつに絞りますよね。
焦点がはっきりしているから、テーマの魅力や特性を最大に引きだせるわけです。
おなじように、俳句でも「魅力や特性を伝える対象」をひとつに絞ることが大切です。

そう考えると、テーマが複数に分散した季重なりは、ある意味作句のタブーと言えなくもありません。

しかも俳句は十七音しかありません。
一度にふたつの季語へスポットを当てようとしても、ほとんどのケースで字数が足りなくなってしまいます。

以上のことから、よほど明確な目的と緻密な工夫がないと、季重なりは失敗するわけです。

確信を持てないうちは季重なりをするべきではないし、その必要もないと覚えておいて損はないでしょう。

それでも季重なりが成立する条件とは……?

季重なりは要注意と解説しましたが、例句のように厳然として実在することもまた事実です。

どうしてタブーが成立するのでしょうか?

もう一度吟味してみましょう。

 ・ 落ちて来て露になるげな天の川  夏目漱石

季語は「露」と「天の川」でした。

季語の価値に上下はありませんが、この句においてはすべての描写が「天の川」へかかる構文になっており、「露」よりも「天の川」が主訴と分かるよう工夫がこらされています。
逆に言うと、強弱をつけることで「この句のメインテーマは天の川ですよ!」と分かるようにしています。

つまり、主要テーマが明確になっていれば、季重なりも成立しうるということです。

ただ、誤解のないように述べると、あくまでも「成立しうる」に過ぎません。
俳句を季重なりとする場合、どうしても何かしら工夫せざるを得ないという意味でもあります。
漱石もその点に腐心して、あえて強弱を明確にしたわけです。

漱石に学ぶ工夫

では、その工夫とは具体的にどういったものでしょうか?

作者がこらした仕掛けはふたつあります。

ひとつは文法の定めによって全体の着地点を「天の川」に統一していること。
「落ちて来る」のも「露になりそうな」のも、すべて「天の川」です。

もうひとつは比喩法を用いていること。
「天の川」は実際に見た情景である一方、「露」はあくまでも喩えとして使われています。
(※ 比喩法の詳しい内容については『表現学部 二階教室 第七回講義』以降を参照してください)

これらの仕掛けにより、ふたつの季語には強弱がついたわけです。

その結果、季重なりでもブレのない俳句に仕上げることができました。

 

これが漱石の俳句における工夫の内容です。
強弱をつける以外にもやりようはありますが、いずれにしても明瞭な意図と工夫がないかぎり、単なるピンボケの写真になってしまうことは覚えておくと良いでしょう。

季重なりまとめ

以上のように、一句に複数の季語を用いることを季重なりと言います。

季語は俳句のメインテーマなので、複数用いると通常は焦点がブレてしまいます。
しかし、文法や表現法を駆使して工夫すると、季重なりの句として成立させることもできます。

これが俳句のタブー、季重なりの真相です。
季重なりには常に作者の意図と工夫がはたらく点を覚えておきましょう。

最後に余興です。

江戸時代の俳諧師のなかには、なんとみっつの季語を入れて名句を詠んだ人もいます。

 ・目には青葉山ほととぎす初鰹  山口素堂

「青葉」、「ほととぎす」、「初鰹」が季語ですね。
並列表記、対句表現の一種かと思いますが、「こんな俳句もあるのかー!」と参考に楽しんで下さい。

二階教室の全講義を終えて

さて、全六回にわたって解説した『俳句大学 作り方学部』二階教室の講義は、これでひと区切りとなります。

いかがでしたか?
役に立ったと思う人は、コメントを返してもらえると励みになります。

二階教室までくると、俳句の専門知識あれこれが出てきて、面食らった人もいるのではないかと思います。
そんなときは何度も読みかえすのではなく、表現学部や文法学部へ移って分からない内容を確認したり、ハウツー本に目を通したりして、目先を変えてみてください。

きっといろんな興味が湧いてくると思います。