第七回 『表現のブラックホール! 俳句に嫌われる表現とは?』

第七回 『表現のブラックホール! 俳句に嫌われる表現とは?』
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みなさんこんにちは。
『俳句大学 表現学部』の第七回講義です。

ここからは二階教室となります。

一階教室が入門編だったのに対し、二階教室は句作を経験した初級者向けの位置づけに変わります。
俳句の基本的な表現方法をまだ読んでいない場合は、一階教室で紹介していますので、ぜひ一読してから先へ進むことをお勧めします。

ブラックホールは足元に……

『表現学部 一階教室』では、計六回にわたり「わたしの気持ち」を俳句に表現する基本的な工程を説明しました。
季語の特性を知り、『たのしいな俳句』を繰りかえし練習すれば、自然と心のこもった一句を詠めるようになるでしょう。

ただ、心をこめることと、それを読み手にうまく伝えることとは、またべつの問題です。

日記のように自分で楽しむならともかく、コンテストへ投句したり、句会で披露したり、家族のために残したり……ほかの誰かに見てもらう場合には、心情を共感できる文章にする必要があります。

そこで『表現学部 二階教室』では、俳句にどんな修辞技法が適しているか、達人のワザをもとに解説していきます。
いわば「俳句によく使う表現」の特集です。

過去の成功事例を参考にすることで、詩作に不慣れな人、表現に悩んでいる人も、作句の方向性を絞りこみやすくなるでしょう。

……しかし、その前にひとつ考えるべきことがあります。

「俳句によく使う表現」がある以上、逆に「俳句に適さない表現」も存在するのではないか? ということです。

 

ちょっと想像してみてください。

俳句の長い歴史のなかで、どんな表現がよく使われてきたかは、過去の例句を読めば一目瞭然に判明します。

誰でも調べられる成功の方程式――それが「俳句によく使う表現」です。

一方、「俳句に適さない表現」はどうでしょうか?

適切でない表現を用いた結果、仮に失敗作ができたとします。
ほかの人が読んでも共感できない俳句です。
それは、句集に残されるでしょうか?

……まず残されることはありません。

つまり、失敗にいたる方程式は、例句をいくら調べたところで確認のしようがないわけです。

初心者にとっての落とし穴がここにあります。

喩えるなら、目に見えないブラックホールのようなものです。
調べる術がないということは、知らず知らずに地雷を踏んでもなんら不思議はありません。

そしてブラックホールは実在します。

 

初めて俳句の世界に来た人にとって、危険きわまりない存在ですよね。

そこで技術的な解説に入る前に、「俳句に適さない表現」が何なのか、ハッキリさせるところから始めましょう。

一見、優先順位がさかさまに見えるかもしれませんが、薬品の添付文書が禁忌から順に記されているように、まず適用外を先に知るほうが安全なのも事実です。
不適切な言い回しを消去法によってあらかじめ避けておけば、無駄な失敗をせずに済むでしょう。

これが今回の目論見となります。

詩情がないと俳句にならない!

では、実際にどういう表現を避けるべきか、大枠をざっくりとまとめましょう。

韻文・散文という言葉が登場しますので、『文法学部 二階教室 第七回講義』の説明を参考にしてください。

有季定型俳句は韻文――すなわち定型詩の一種です。
言葉が短くても詩には違いありませんので、詩情がなければ文芸作品としての価値が生まれません。

そのため、詩になりにくい表現は避けたほうが無難だと言えます。

もう少し詳しく掘り下げると――

たとえばビジネスレターを綴るとき、メルヘン調で書きあらわす人はいませんよね。
文章の目的に照らして明らかに不適切です。
理路整然とした語り口には、無味乾燥な散文のほうが適しています。

 

ひるがえって俳句を詠むときは、理屈をならべた書きあらわし方をすると、逆に詩情を損なってしまいます。
もしビジネスレターを五・七・五にしたら、きっとキャッチコピーのような文章になるでしょう。

それは詩とは呼べません。

くわえて俳句はとても短いため、そもそも詩情以外の成分を言葉にするスペースがありません。

したがって、詩にならない表現は選択肢に入れないほうが良い、という結論になります。

俳句は因果関係を嫌う 

結論はまとまったものの、「詩情のない表現を避ける」という概念だけでは、あまりにも漠然としていますよね。
もっとピンポイントで絞らないと、巨大なブラックホールを避けるのは至難の業です。

具体的にどんな書きあらわし方を避けるべきなのでしょうか?

その代表格としてここで取り上げるのが、因果関係と呼ばれるものです。
もう少しかみ砕いて言うと、

「ものごとの原因と結果を書くこと」

を意味します。

 

このあと解説しますが、因果関係には大きく分けてふたつのパターンがあります。

 ・顛末:ある状況や言葉にいたる原因を究明した文章
 ・説明:ある状況や言葉をべつの要素で構成した文章

これらを語りだすと、それぞれ原因と結果を記述する羽目になり、著しく詩情を損ないます。

ですので、まずは因果関係にならないよう心掛けるのが大切と言えます。

……とは言っても、通常これらの用例を確かめる手段は存在しません。
実際の失敗作を目で見ないことには、因果関係を避ける理由も方法も不明なままです。

そこで、ここでは過去に筆者が失敗した実例をひっぱり出して、具体的な部分を説明したいと思います。

避けるべき表現① 顛末

すこし雑談をはさみましょう。

世のなかの俳人は、たいてい自分の駄句をひどく敬遠します。
極端な例だと、詠み終えたそばからゴミ箱へ放り投げる人もいるくらいです。

もちろん作句のスタイルは人それぞれですが、筆者的には駄句を捨てずに保存しておくようオススメします。
自分の欠点や成長を振りかえる材料になるからです。

そんなわけで、次の例句を見てください。

 ・ 凍て月を窓にさえぎる鍋の湯気  豊島月舟斎

まだ俳句のハの字も知らなかったころ、満員の通勤快速でもみくちゃになりながらスマホ片手に作った失敗作です。

このパターンがまさに「顛末」の悪例と言えます。

季重なりの問題もありますが、何よりも俳句のたたずまいとして方向性を間違えている点に注目してください。

本句で述べていることは、要するに結露という自然現象の顛末です。
窓から月が見えない原因を究明したにすぎません。

それゆえ「あったかいと言いたいんだろうけど、詩になっているかというと微妙」な文章になってしまっています。

このように「顛末」を俳句にすると、読み手に詩情を共感してもらうことができません。

ゆえに、俳句の語り口としてふさわしくないのです。

避けるべき表現② 説明

もうひとつのパターンが「説明」です。

こちらも失敗作を例示しましょう。

 ・ 清明に制服新た子の雄姿  豊島月舟斎

……見ただけで散文くさい文章ですね。

何が問題だか分かるでしょうか?

清明のころ新しい制服を着ている子どもと言えば、「入学児」や「新入生」に決まっています。
つまり、本句で述べていることは、「入学児」あるいは「新入生」といった季語の言い換えに当たります。
そこが問題点となって、全体に説明的な印象をぬぐえないわけです。

これが「説明」の実例です。

俳句の世界では、例句で述べた要素はすべて、季語の本意に含まれていると考えます。
言い換えれば、たった五音の季語をわざわざ十七音に引きのばしたにすぎません。

このように、ものごとを要素に分解してならべた文章は、散文的になりがちです。

「顛末」と同様、俳句において避けるべきブラックホールのひとつと言えるでしょう。

散文的な俳句の見破り方

因果関係の解説はここまでです。
本項を読んだみなさんは、ぜひ筆者が経験した失敗の轍を踏まないようにしてください。

そのうえで、なお自分の詠んだ俳句に不安をおぼえる場合、ちょっとした検証手段があります。

文中の助詞に注目してください。
詩情のうすい俳句には、「に」や「にて」が使われやすい傾向があります。

これらは、場所や時間、対象物を指定する役割をもち、文章を散文的にしやすいと言われています。(失敗例にも使われていますよね!)

 

いったん自分なりに作句して、あとから見直したときに、もし上記の助詞が入っていたら要注意です。
一概にダメ! というわけではありませんが、詩情のない顛末書や説明書になっている可能性を否定できません。

ひとつの見分け方として、頭の片隅に置いておくことをオススメします。

俳句に嫌われる表現まとめ

今回のまとめです。

俳句は大前提として韻文であり、定型詩に分類されるため、詩情がなければ詩としての価値が生まれません。
その結果、俳句に適した表現がある一方で、俳句に適さない表現というものも実在します。

その代表格が因果関係です。

因果関係は散文的な語り口ですが、とりわけ俳句の初心者や、ビジネス的な思考法が染みついた人は、韻文に持ち込んでしまいがちな傾向があります。
したがって構想の段階から注意を要します。

実例としては、おもに
 ・顛末
 ・説明
のふたつのパターンで表出します。

しかし、失敗例を既存の俳句から学びとることは非常に困難です。

ゆえに、判断に迷ったときは「に」や「にて」といった散文的になりやすい助詞に注意して作句すると良いでしょう。

以上となります。